敬仁女子大学 花井道男

敬仁女子大学 花井道男

「アジア平和文化交流の会、韓国」平和フェスティバルにあたって

今日こうして「アジア平和フェスティバル」をここソウルにて開催されることとなり、心よりお喜び申し上げます。またこのように不足な私が皆様方にお話をさせて頂けることは恐縮であると共に大変光栄に存じます。

「アジアの平和」と言えば、何といっても日本、韓国、中国の3国が中心であり、特にその中でも日韓関係は最も重要な関係ではないかと考えられます。その日韓関係を歴史的観点から少しお話し申しあげます。私は中学時代からずっと疑問を感じていたことがありました。

それは「社会」の時間に習った日韓の歴史の中で、百済滅亡の危機に日本から応援軍を送った内容でした。663年の「白村江(はくすきのえ)の戦い」で、韓国では「白馬江戦闘」と呼ばれています。

私はその前後の内容からはなぜ日本から応援軍を送らねばならなかったのかを把握することができなかったからです。それから約20年後韓国に来てその理由をはっきりと知ることが出来ました。つまり百済は同盟国であり、仏教を中心として様々な文化が日本に採り入れられたという背景があった訳です。其れ程の友好関係が築かれていたということになります。

既に660年に滅亡の危機にあった百済救済を日本に願い出ました。しかし、海外に出陣の準備が整っていなかった日本はその時から3年の歳月を懸けて400隻の船を造り、出陣したと言われています。そして戦争は新羅と唐の連合軍に大敗しましたが、国を失った多くの百済人を日本に亡命させました。

これは両国にとっていわば歴史的重大事件でした。彼らは滋賀県の琵琶湖の周辺を中心として、日本に移住しました。ですから、滋賀県には渡来人の子孫が多く住んでおり、韓国式暖房であるオンドルの遺構も発見されたということです。

また百済の最後の王族たちは大阪に移住し、その跡地は現在、百済王神社として祀られています。

廷は手厚い優遇措置を取り、当時の列島の人口は500~600万人と推計され、受け入れの余地は十分にあったとされます。しかも、聖徳太子以来、中央集権国家の形成を目指していた日本は、中央の官僚制度の仕組みや運営の仕方について、亡命百済人との交流の中から学ぶ点が少なくなかったと思われます。

ですから、国を失った百済人は当然の如く国の再建を試みたことでしょう。戦争から40数年後の710年の奈良に平城京ができました。 「ナラ」は韓国語で「国」という意味ですし、その背景には多くの百済人の尽力があったに違いありません。また日本に影響を与えたのは文化、芸術だけではなく言葉もあると思います。例えば、普段私たちが何気なく使ってる語句の中に「ハナから分かっていた」というのがありますが、この「ハナ」は韓国語の「一」とか「一番目」とかいう意味で,「初め」ということです。

また日本語で、「旗がなびく」と言いますが、韓国語で「キッパルナブキダ」といいます。相撲の行司の「ハッケヨイ」は「ハルケヨ」つまり「(今から)しますよ」という韓国語が由来で、「シルム」という韓国式相撲が日本に伝わり、言葉はほぼそのまま伝承されたと考えられます。

2001年の天皇誕生日を前にして明仁天皇が歴史的発言をされました。「桓武天皇(第50代)の生母は百済の武寧王の子孫であり、「続日本紀」に記録されている事実に韓国との縁を感じる」という天皇家が韓国と深く関わっていることを認めるものでした。当時韓国ではこのニュースが大々的にテレビや新聞で報道されました。

武寧王といえば別名を「斯麻王」といい、この「麻」の付く名前は百済人の証拠であるとも言われます。

あの有名な万葉歌人の柿本人麻呂はその代表的な例です。韓国の姓には陳氏や郭氏など中国から韓国に渡り、帰化した姓も多くあります。こうして見ると日本、韓国、中国は血が繋がっているのです。

今後、竹島や尖閣問題で争うことの無い、利害関係を越えて相互に理解し合う真摯な友好関係が築かれて行くことを心から願ってやみません。最後に主催者の方々のご苦労に心より感謝の意を表します。

敬仁女子大学    花井道男

Author: asiapeace